2013年3月29日金曜日

数学脳


「数学的に脳を鍛える」というのが、脳科学と共に、
ブームになったりしていますが、
ここのところ、「数学脳」というものに疑問を感じています。
自分の「理系」の友人には、感じた事はないのですが、「理系」の教員に対して。

・暴行を行った該当教師。
・暴行を行った教師を擁護する学校責任者・校長。
・「差別問題」を解決しようとしない学校管理職・教頭。
・生徒が自分のせいで部活に参加できないことを、ものともしない教師。
・「何のことかわかりません」ととぼけ続ける教師。
・わけのわからない理屈で補習参観を断固断る教師。

これが全て、「理系」
何故、こうも理系なのかを考察してみました。

とある研究室にいる、科学系の知人に聞くところによると、
「理系」の中で、一番生産性の無い考え方をするのが、
中途半端な数学脳の持ち主とか。

私達素人は、「理系」と言えば、ひとからげに考えてしまいますが、
「物理脳」「工学脳」「科学脳」「数学脳」「幾何脳」と、いろいろあるとの事。

数学系の世界は「一本論理」が通れば、それでOK。
他の論理との比較や現実との照合は必要がない。
何故なら、答えは一つだから。
なので、「間違い」が最初の「一本論理」にはまってしまうと、
その後の修復ができないとの事、なんとなく納得。

「数学脳」は、「文系」と違い、
「嘘と真実」「肯定と否定」「科学と非科学」など、
こういう相矛盾することを思考する場合は、
特殊なトレーニングを受けていないと、かなり脳にダメージを受けるらしい。
なので、考える事を「回避」する。

その研究が近代経済学に広く応用されている、
有名なノーベル賞数学者、ジョン・ナッシュ博士はそれがもとで、
精神分裂症・統合失調症になったそうです。

数学脳の持ち主には、いつも頭の中に「座標」があり、
例えば、「喜び・悲しみ」「愛と憎しみ」「善と悪」「信頼・裏切り」
このような、血肉の感情が、頭の中の、X座標の正と負の関係でしかない。
要するに、1次元の思考。

そう言われてみると、
文系は、俯瞰で物を見て、座標の名前の逆付けもできるし、
プラスをマイナスと思うか、マイナスをプラスと思うかの
どちらにも対応できるような気がします。
∵と∴が性急に頭の中で、決まるシステムが数学脳。

純粋理論は理解できるのに、
他への応用となると、全く理解できないという特殊な頭脳。 
全部が全部ではないですが、かなりの偏りを感じます。

ディスカッションができない。
彼らはディスカッションにも、「目的」と「結果」を求めるからです。

気軽な情報交換や簡単な意思の疎通。
これが、普通のディスカッション。

文系が日常行っている、通常ディスカッションといわれるのは そういうもの。
予習もなければ復習もない。
問題が起きたら、その都度、柔軟に対処するのが通常の社会人のする事ですが、
「起きた事柄」に、予習が必要だとか言ってしまう数学脳の性質の悪さ。

極端な話、数学以外のことを考えるだけで、うんざりすると言うのが、
数学者からよく聞く言葉で、
これが致命的欠陥であるがゆえに、柔軟な議論が出来ない。
ここまで書くと、常識のある数学者達には怒られてしまいそうですが。

そこに尻尾を振ってすり寄るのが、筋肉脳。
右脳が退化した筋肉脳には、
自分には未知の数学脳が、神のように見えるのでしょうか。
そして、その輪からはじかれる文系脳。
どこのコミュニティでも、何故か同じ構図です。

それは何故か。

偏った数学脳は、弁証法的な考え方が一切できない。
数学脳の「答えは1つ」に対して、
文系脳は「多岐に渡る答えを出す」
「多岐に渡るややこしさ」を筋肉脳は嫌うというのが、この構図の正体でしょうか。

これは、飽くまで知人の分析。
常識のある数学者には、申し訳ないです。

長野県にも、下記のような数学の研修会が定期的にあるようですが、
自分の子供には、「数理的な考え方」はしてもらいたくないというのが、
この話を聞いた結論でした。






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