「数学的に脳を鍛える」というのが、脳科学と共に、
ブームになったりしていますが、
ここのところ、「数学脳」というものに疑問を感じています。
自分の「理系」の友人には、感じた事はないのですが、「理系」の教員に対して。
・暴行を行った該当教師。
・暴行を行った教師を擁護する学校責任者・校長。
・「差別問題」を解決しようとしない学校管理職・教頭。
・生徒が自分のせいで部活に参加できないことを、ものともしない教師。
・「何のことかわかりません」ととぼけ続ける教師。
・わけのわからない理屈で補習参観を断固断る教師。
これが全て、「理系」
何故、こうも理系なのかを考察してみました。
とある研究室にいる、科学系の知人に聞くところによると、
「理系」の中で、一番生産性の無い考え方をするのが、
中途半端な数学脳の持ち主とか。
私達素人は、「理系」と言えば、ひとからげに考えてしまいますが、
「物理脳」「工学脳」「科学脳」「数学脳」「幾何脳」と、いろいろあるとの事。
数学系の世界は「一本論理」が通れば、それでOK。
他の論理との比較や現実との照合は必要がない。
何故なら、答えは一つだから。
なので、「間違い」が最初の「一本論理」にはまってしまうと、
その後の修復ができないとの事、なんとなく納得。
「数学脳」は、「文系」と違い、
「嘘と真実」「肯定と否定」「科学と非科学」など、
こういう相矛盾することを思考する場合は、
特殊なトレーニングを受けていないと、かなり脳にダメージを受けるらしい。
なので、考える事を「回避」する。
その研究が近代経済学に広く応用されている、
有名なノーベル賞数学者、ジョン・ナッシュ博士はそれがもとで、
精神分裂症・統合失調症になったそうです。
数学脳の持ち主には、いつも頭の中に「座標」があり、
例えば、「喜び・悲しみ」「愛と憎しみ」「善と悪」「信頼・裏切り」
このような、血肉の感情が、頭の中の、X座標の正と負の関係でしかない。
要するに、1次元の思考。
そう言われてみると、
文系は、俯瞰で物を見て、座標の名前の逆付けもできるし、
プラスをマイナスと思うか、マイナスをプラスと思うかの
どちらにも対応できるような気がします。
∵と∴が性急に頭の中で、決まるシステムが数学脳。
純粋理論は理解できるのに、
他への応用となると、全く理解できないという特殊な頭脳。
全部が全部ではないですが、かなりの偏りを感じます。
ディスカッションができない。
彼らはディスカッションにも、「目的」と「結果」を求めるからです。
気軽な情報交換や簡単な意思の疎通。
これが、普通のディスカッション。
文系が日常行っている、通常ディスカッションといわれるのは そういうもの。
予習もなければ復習もない。
問題が起きたら、その都度、柔軟に対処するのが通常の社会人のする事ですが、
「起きた事柄」に、予習が必要だとか言ってしまう数学脳の性質の悪さ。
極端な話、数学以外のことを考えるだけで、うんざりすると言うのが、
数学者からよく聞く言葉で、
これが致命的欠陥であるがゆえに、柔軟な議論が出来ない。
ここまで書くと、常識のある数学者達には怒られてしまいそうですが。
そこに尻尾を振ってすり寄るのが、筋肉脳。
右脳が退化した筋肉脳には、
自分には未知の数学脳が、神のように見えるのでしょうか。
そして、その輪からはじかれる文系脳。
どこのコミュニティでも、何故か同じ構図です。
それは何故か。
偏った数学脳は、弁証法的な考え方が一切できない。
数学脳の「答えは1つ」に対して、
文系脳は「多岐に渡る答えを出す」
「多岐に渡るややこしさ」を筋肉脳は嫌うというのが、この構図の正体でしょうか。
これは、飽くまで知人の分析。
常識のある数学者には、申し訳ないです。
長野県にも、下記のような数学の研修会が定期的にあるようですが、
自分の子供には、「数理的な考え方」はしてもらいたくないというのが、
この話を聞いた結論でした。
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